09


『あのさ、死樹』
『なに、彼岸』
『…何がしたいの?』

闇色の空にぼんやりと光を放つ、綺麗な満月が掲げられていたその夜。
橙色の箱庭、赤い蝶が輝くその廓の中をゆらりゆらりと歩きながら、死樹と彼岸は進んでいた。
すっかり機嫌が戻った死樹が、突然ついてこいと言ったから素直に従ったが、まさか今になってこんなところに連れてこられるとは。
人間でもなければ獣でもない、好んで漁る連中もいるだろうが、少なくとも自分たちには必要ないモノ。
しかも今宵は人としての成りをしたわけでもなく、本当に“妖”としての訪問だ。
彼岸の力があれば、普通の人間の目を誤魔化すことなどいとも容易く行える。
何百年も生きていれば、そんな状態でも極たまにこちらを認識できる者と出くわすこともあるが、ほぼそれは皆無に等しいと言ってもいいだろう。

どうやらここに来るまでの話からするに、死樹は今日ここの遊郭の奥にある、開かずの扉と云われる戸を開けに行くらしいのだ。
そこに何があるのかは知らないが、きっとろくなものではないことであることは予想出来る。
ただでさえ彼は最近そこらの妖をちょいちょい集めて構っているので、彼岸としては気が気でない。
まぁことの発端は確かに彼岸にもあったのだが、今ではその幼子二人に加えて死樹が招いた獣が二匹とひどい有様だ。
しかも後者の瀕死だった方の狼は、これまでどんな行いをしてきたのか理性もだいぶ崩壊しているようでそれこそ本能に従順状態である。
今だって鎖で繋いで、真紅と瑠璃、そして同時に救った化け猫の少女に見張らせることでなんとか抑えられているくらいだ。
一命は取り留めたのだから、もう放ってやればいいのに。やはりきっと、何かを企んでいるに違いない。
そしてこれも、その一つ。

自分で思っていたより真面目な顔――そして強張った問い掛けを零した彼岸に、死樹はいつもと変わりなく吹き出すように笑った。

『何ってなんだよ、遊郭には女漁りに来るの。常識だろ』
『そんな趣味ない癖に。なんでこんな姿隠して訪問なんて手の掛かることするのさ』
『なんでってそりゃあ、人が嫌がるとこを開けに行くから。バレてうっかりどれかが死んだらまずい』

――どれか、ということはやはり中には何かがいるらしい。

一番大きな廓の、どこぞのお偉いさんの通る道を、すかした顔で横切る死樹のあとに続いてく。
障子から窺える女の甘い声と、酒のにおい。楽しそうな知れた談笑と映る影を、一瞥することもなくより奥へ。
華やかな空気がある程度消え、人工的にさえ思える中庭の横の廊下を進み、一段と闇を帯びたところのそこで、死樹はようやく足を止めた。
促されて周囲へ向けていた本日は焔の如く赤い視線を、何気なく前へと向けてみる。
嗚呼ここが目的地かとぼんやりとして認識したところで、その正面に立ち塞がるあまりの異様さに思わず目を疑った。

『…札だらけじゃないか』
『思ったよりひどいねぇ。最も、こんなんじゃ量ほど威力はないけれど』

これまでの障子なんて簡易なものとは全く違う、どこかの蔵のように鉄――とまではいかないものの重そうな扉。
そしてその入り口を、隙間なく埋めるかのようにひたすら、無造作に貼られた札。
一応そこには達筆な文字がきちんと描かれてはいるのだが、ここまでの量を貼る狂気は窺えても生憎威力としてはそれほどでもない。
何かが出ないようにしてあるのだろう、札に込められた意よりも、この扉の微かな隙間から溢れている気の方がよっぽど強く滲んでいる。
しかしそれは、この扉をきちんと認識してこそ、初めて噎せ返るくらい一気に感じられた妖力であった。
瘴気でさえないものの、閉じ込められているモノの気をこれだけ感じると胸焼けに似た微かな不快感を覚える。
そんな中で、死樹が一歩前に出て扉に手を伸ばすのだからもうわけがわからない。

『やめときなよ』
『可哀想じゃないか』
『顔が笑ってる、』
『彼岸は下がってな。俺が万一中てられたらその時は頼む』
『…そうなったらここに放っていくよ』

結局言ってることと表情が滅茶苦茶なまま、仕方なく彼岸が目を細めて数歩下がると、死樹は今度こそきちんと扉の取っ手をそれぞれ両方掴んだ。
やはりどこか楽しそうに浮かべられる笑みに、困ったなぁとまた彼岸は内心で零す。
本当に札の効力なんて知れていたようで、死樹が少し力を込めると呆気なく扉はぎしりと音を立てた。
何年分かは知らないが、貯まっていた埃や砂がざぁっとそれに合わせて動く。
覗けるぐらいの隙間が、人がやっと一人通れるほどへ、そうしてその開いた扉が、丁度死樹の両腕が無理をしない程度で肩幅より少し大きく開いたとき。

『…、ぬし様は誰どすか?』

鈴のように清く、それでもどこか耳に残る艶やかな音色がちりんと響く。

『君たちに、お願いがあって』

死樹がようやくそう答えたのを聞いて彼岸も横から覗くと、中は紫の行灯に照らされ、丸く月のような大きさの鏡が一枚祀られていた。
行灯の灯が強く、そして仄かに変わるのに合わせるかの如く、その祭壇の前で長い、それこそ花魁のような衣装を纏った女が床の上で横たわる男に口づける。
長い黒髪は床に溜まり、きっと彼女の身長よりかなりあるに違いない。
口づけされた方の男は、一度吐息を洩らしてからゆるやかに女と揃いの赤い瞳を開いた。
こちらの黒髪も長いが、きっと精々腰辺りだ。

『お願いって、言われてもねぇ…』
『――ねえさん、もう一回』

細く掠れた声で男が女を請えば、また二人の唇が重なる。
嗚呼これダメなやつじゃないのかと思っても、死樹が気にせず面白そうに笑みを深めるものだからこいつももう駄目なのだと悟った。






そして呼吸を始めるんだ