『御影さんの、妹、さん』 『はい』 ――長のいない村なんて、すぐに崩壊するに決まっている。 沢山の妖たちは、そう考えてこの森から出て行った。 少女の兄が絶対権力として治めていたはずの誇り高き森は、もうここには存在しない。 残った妖たちはひょっとしたらもうあの頃の半分にも満たない数なのかも知れないが、全てを把握出来てもいない少女にはわかる由もなかった。 ただ少女を知る数名の者や兄に恩を感じていた者は去り際、わざわざ少女のもとに頭を下げに来てくれる。 この目の前に正座する、被っていた笠を膝に乗せ、一つに束ねた緑を帯びた黒髪を肩から垂らす御影という名の男もそうだった。 しかしこの男の場合は、皆とは逆の理由で。 この森の長がいなくなる当時、彼は丁度故郷に帰っていたのだ。 そうして先日、自分より二回りほど幼い齢の妹を連れて帰還した。 『お名前をお伺いしても?』 『あぁ…、手鞠です』 『手鞠さん』 綺麗に切り揃えられた黒髪の隙間から覗く、兄と同じ菫色の瞳と目線を合わせれば、幼き妹は兄の袖に隠れながら気恥ずかしそうに隠れてしまう。 『すみません…』 その仕草に、隣の兄が申し訳なさげに頭を下げた。 合わせて煌めく長髪もさらりと小さな弧を描く。 相変わらず綺麗な髪だと思いながら、少女はなかなか顔を上げない彼に別に構いません、と微笑みながら言葉を掛けた。 時々顔を出してこちらを覗いてくる手鞠にも、小さく手を振ってみる。 勿論その小さな手が少女へ向かって振られることはない。 一方で少女の言葉に躊躇いがちに背筋を正した御影は、顔に掛かった髪を避けてから改めて大きな吐息を洩らした。 その様子に、少女もつられて眉を下げる。 『やはりこの森には、もういられないのでしょうか』 改めて口にされるとひどい話だ――と思った。 御影がぽつりと零した言葉に、言った本人も少女も俯く。 長のいなくなった森は――しかもその代役が特にこれまで威厳もなかった女であるとなれば治安はどんどん悪くなる。 現に先日も小さな妖を喰らおうとする妖が現れ、少女を中心とする数名で対処した。 もっと詳しく言ってしまえば、実質追い返してくれたのは少女の社に居座る二人だ。 少女も戦術に長けてはいる方ではあるのだが、生憎実践経験が少ないぶん反応も遅れてしまう。 凶暴な妖相手だと、そのたった僅かな時間が大きな被害を招く。 二人の間に流れる重い空気を察した妹が、とてとてと前へ出て兄の顔を覗き込むが、対する彼は我に返るなり、一度びくりとしてから遮るようにすっと距離を取っただけだった。 『僕のような種族は、すぐに追い出されてしまうので。ここなら妹と暮らせると思って戻ってきたのですが…冬祈様がいらっしゃらないのなら、この子は里に帰します。きっと僕じゃあ守りきれないでしょう』 『私の力が及ばないばかりに…申し訳ないです』 『いいえ。あなたはどうか気に病まないでください。全部僕が弱いのがいけないんです』 兄は太腿の上で拳を作ってそう呟くと、少女へ向かって悲しそうに微笑んだ。 この森は、きっとこれからどんどん荒れて廃れていく。 ただの欲から代わりに治めようとする輩が現れないとも限らない。 それを考えると、彼が言うように少女もこの娘を自分が守ろうと宣言出来る自信もない。 折角一緒にいれるようになれたはずだった兄妹が、引き離されてしまうのだ。 そう考えると、自分のことのように胸が痛む。 外は少女が自身の兄に捨てられたあの日のように、雪がしんしんと降っていた。 地に落ちた雪は、まだ昇る太陽に照らされて消えていく。 『明日から、また暫く留守にします。と言っても、誰もあんな古びた神社には近付かないでしょうが』 『…ごめんなさい』 ひどい有り様だ、と嘆いたところでもう遅い。 長であった兄がいなければこの森はもう駄目で、そんな手元から離されてしまった少女もそれと同じだ。 何も出来ずに、きっとこのままここで築き上げたものが崩れていく姿をまじまじと見詰めていくのだろう。 少女の洩らした謝罪に、男は深く頭を下げた。 そんな絶望的な沈黙を破ったのは、突如ふわりと障子越しからやってきた冷ややかな風だ。 『――そんな簡単に、諦めきれるものなのか』 続けて凛とした声が響き、そのまま優雅な手つきでゆるやかに障子が開く。 白い着物に身を包んだ白雪は纏った夜色の羽織りを自身の冷気に靡かせ、ぎしりと幼い少女との距離を詰めた。 細く白い指先が、肩辺りで切り揃えられた妹の髪に絡む。 責めるような言葉に反応した傘の男が、菫色の瞳を細めて微かに肩を震わせた。 『…仕方ないじゃないですか』 一歩、また一歩 |