少女はそれまでずっと、兄の傍で生きてきた。 見てきたものは、綺麗なものばかり。 この森にいる他の妖ですら滅多に顔を合わせることはなく、はっきりと思い出せるほど脳裏に焼き付いている兄以外の同胞は、存在しないくらいであった。 しかし兄がいなくなり、だらだらと初めて一人で森を歩いた或る日の真っ昼間。 少女はそこで、樹の陰から突如現れた漆黒の男と出逢った。 長く伸びた濡れ羽色の髪を頭の後ろで一つに束ね、金に輝く法具をしゃん、と鳴らし。 背から広がる、少女なんて簡単に呑み込んでしまえそうなほど大きくばさりと羽ばたく闇色の翼。 とっさに胸に広がったのは、恐怖と畏れだった。 『…この森の…方ですか?』 『いいや、違う。ただの旅の者だ』 小さな声色での少女の問いに、漆黒の男は淡々と答えた。 『ここには、雪男の長がいると聞いた。会わせたい者がいる。だが聞くところによると、その長はもう永年留守らしい』 長の指摘をされ、この森を治めに来たのかと尋ねれば、男はこれも先程と同じように否定する。 本当に旅者なのかなんて、わからない。 万が一に少女が後ろで攻撃を構えると、すぐに気づいて男がそれはやめてくれ、と苦い顔で告げてきた。 『あんたは、雪女だろう?話を聞いて欲しい』 『…雪女であることが、関係あるんですか?』 木洩れ日が、二人の横顔をきらきらと照らす。 流れるような少女の白銀の髪が、少し肌寒い春の風にふわりと舞う。 こちらには戦う気がないことを示そうとしたのか、漆黒の男は法具を手放して地面へ投げた。 道具を持つ妖は、基本的にその物を手放すことによりがくりと力が低下する。 少女は無意識にそれに安堵し、ほんの少しだけ自らの構えた手の力を緩めた。 『話…、だけでしたら』 『感謝する』 すると漆黒の男はそのまま少し後退して、自らが現れた樹の陰から新しく白い手首を引き寄せた。 その瞬間、樹の向こうから冷ややかな風が舞う。 春の――なんて温いものではない、身体の芯を凍らすようなものだった。 少女はコレを、知っている。 これまで生きてきて、この気配だけをただひたすら覚えて感じてきたのだ。 他の妖なら、少しの間動けなくなったかも知れない。 しかし少女にとってこの気配は、兄や自分の司る冷気に限りなく近いものでしかない。 『っ、!』 陰から現れたのは、白い着物の上に黒い羽織りを身につけた美しい男だった。 短く切り揃えられた黒髪の隙間から窺える、少女と同じ青い瞳は凛と強い光を秘めている。 その男は重ねてふわりと吹いた春風に白い息を吐くなり、掴まれた手首を伝うように漆黒の男に身を寄せた。 まるで冬の夜かの如く、細い身体が小刻みに震えている。 『俺は“鴉天狗”だ。名は夜継。こっちは察してる通り、“雪男”に違いない』 夜継はやはり淡々と述べながら、口を閉ざしたままの雪男の髪をくしゃりと撫でる。 そうすると凍えるように吐かれていた息が、ほぅと甘く和らいだ気がした。 まるで術にでも掛かっているかのようだ。 『使役なさってるんですか…?』 『違う。ただ一緒に旅をしてる。見ればわかる通り少し訳ありで、まだあまり同胞と話したことがないんだ』 更に一息置いて、夜継は続ける。 その間も隣の雪男はずっと、肩を抱いて身を縮めていた。 『名は白雪。本当は年長者を探していたんだが、あんたでもいい。少し話をしてやってくれないか。その様子だと同胞、好きだろう?』 『――白雪、さん』 名を呼べば、夜継の首に顔を埋めた雪男がこちらを振り返って目を細める。 久々に目にした同族に、少女は思わず頷いた。 兄がいなくなってもう何百年も経つ。 雪の者は北の方に多いことや、この森に他の雪女や雪男がいないこともあって、仲間を目にしたのは幼い頃以来だ。 夜継が再び頭を撫でると、まだ寒い、と微かに白雪が呟く。 『よかったら…、私の社に来ますか?』 吹く風に問う |