――後悔したときには、もう全てが手遅れだった。 それは或る吹雪の日。 まだ幼い少女に、「ごめんね」と兄は言った。 人間が嫌いだと言ったのは兄だった。 自分勝手な彼らのせいで、大切な仲間を何人失ったことかとよくぼやいていた。 だから、少女も人間は嫌いだった。 兄が嫌いなもの、全てが少女の敵だった。 人間へ憎しみの言葉を吐く度、兄が見せた寂しそうな微笑だけは今も鮮明に覚えている。 月光(つきあかり)に照らされたこの森の長の横顔は、少女にとってこれまで見てきた何よりも美しかった。 そして少なくともそういう顔を彼がする間は、少女は兄が自分を置いて何処にもいかないに違いないと信じていたのである。 なので兄が変わったと知ったその時、少女の全ては壊れたのだ。 あの日勝手に森なんかに行かなければよかったと、今になって強く思う。 きちんと言いつけを守っていれば、もしかしたらこんな未来は訪れなかったかもしれない。 兄に、勝手に家から出てはいけないと言われていたのだ。 なのに少女は約束を守れなかった。 どんどん深く、森を歩いて。 沢山の、今まで知らなかった世界を目にした。 綺麗なもの、不思議なもの、恐ろしいもの。 ――自らの知らない兄の姿までも。 兄は隣の森で大事な話があると言って出掛けて行ったので、決して会わないものだと思っていたのに。 息の仕方を忘れそうだった。 普段口にしている呼び名さえ、喉に引っ掛かって出てこなかった。 森の奥の寂れた洞窟付近で、兄と見知らぬ女性がいる。 しかも妖力も他種の妖の気も感じない。 ただ兄の気の間に微かに漂うのは、確かに人間のもので。 真っ白な自分とは違い、華やかで且つ上品さを持つ紫の着物。 気付けば物陰に隠れて二人の様子を窺っていた。 兄の身体に触れる手が、人間に触れる兄の手が。 互いにとても優しくて。 果たしてあんな風に、自分は兄に触れられたことがあっただろうか? 考えれば考えるほど、頭が上手く回らなくなった。 次第にゆっくりとだが、その状況が密会であり二人がとても仲睦まじい関係であることを理解し。 兄の愁いを含むその青い瞳から零れるものが涙と知ったとき。 二人の唇が触れる寸前で、少女は堪らずその場から逃げ出した。 ――そうして、冒頭に至る。 次の日、ひどい吹雪の中帰ってきた兄は少女にいつものように微笑みかけ、謝罪を口にした。 いつかきっと帰ってくるから――、そう残して灰色の世界へ姿を消した。 しかし五十年、百年、ひたすら待っても兄は現れない。 もしかしたらそんなことは端からわかっていたことなのかもしれないが、兄は実の妹よりも、人間の女を取ったのだ。 あれだけ憎んでいたはずの彼らに自分は負け、棄てられた。 それは本来感じるであろう絶望よりも何千倍にもなって、少女に重く圧し掛かった。 押し潰されそうな、かつて感じたことの無い孤独感。 長を失った森は、あっという間に荒んでいった。 少女を長の妹だと知る者が何度もやってきたが、それに対応する力さえ無かった。 ただ帰って欲しいとごめんなさい、それだけを呪文のように訪問者に告げて頭を下げていた。 ――人間なんて、大嫌いだ。 胸が痛くなる程の“哀” |