『『死樹さまァ』』 先程森へ遊びに行かせたはずの二人の少女は、全く同じトーンの声色でそう呼び掛けて、死樹の灰色の袖を両サイドから掴んだ。 死樹と向かい合うようにして話していた彼岸が、少し眉を顰めてやめなさいと告げるが、生憎真紅と瑠璃にその言葉は届かないらしい。 躾が足りてないなぁとまた皮肉交じりにぼやいた死樹は、大袈裟に肩を竦めながらも仕方なく屈んで二人へ耳を傾けてやる。 すると高い声が死樹の両鼓膜を刺激した。どちらか一人でよかったのだが、言ったところできっと二人には聞こえていないのだろう。 『狼がァ、血まみれで倒れてるの』 『…、狼、ねぇ』 『赤い血だったァ』 『青くなかったァ』 『へぇ』 やはりその日も小雨だったが雨が降っていて、死樹がゆらりと着物の裾を翻し、彼岸に傘が押し付けたのはそれからすぐだった。 『これはひどいな。もう狩ってもいいくらいだ』 真紅と瑠璃に引っ張られ、やってきた比較的人里に近いところの大きな樹の陰。 相変わらず死樹の頭に隣で傘をさしながら、彼岸も彼の言葉にあぁ、と思った。 二人があまりにクスクス笑いながら言うものだから甘く考えてしまっていたのか思ったより状況は酷く、雨に紛れ、随分流れているが確かな血溜まりの中に、一匹の狼が倒れていたのだ。 そしてその傍で、泣いている少女が一人。真紅達より少し大きく見えるその外見は、人に当てると齢十四、五ぐらいであろう。 ぱらぱらと微かに降り続く雨の中、少女はひたすらしくしくと零れる涙を拭いながら泣いていた。 その小さな背には、ゆらゆらと揺らめく着物同様の真っ黒な尾が見て取れる。 同じ狼かと思ったが、どうやらそうではないらしい。どちらかと云えば――猫、といったところか。 『そこの化け猫のお嬢さん、これは一体どうしたんだ?』 死樹が隣まで言ってそう訊ねると、折れそうなくらい細い肩がびくりと震えた。 天気のせいで雲が張り、些か空気も重い。 ようやく上がった顔も目元が真っ赤に腫れ、正直見ていられるものでもなかった。 死樹の質問を引金にまたぽろぽろと大粒の涙を零すと、少女はこの雨音にも呑まれそうな蚊の鳴くような声で答える。 『人間に、やられたんです。あたしが、ものを盗んだから。追いかけてきた人間にやられそうになったところを、彼が助けてくれて』 死んじゃったらどうしよう、と。 『治癒は?使えない種族じゃないだろう』 『まだ上手く出来ないんです、さっきやってみたけど、全然効かない…っ』 死樹がそうか、と唸り、少女がまた俯いてぐすぐすと泣く後ろで、彼岸もそれならばもうきっと無理だろう、と思った。 可哀想とさえ思わないが、いくら死樹が“そういうこと”をする役を担っているからと言って、こうして死に際に立ち寄るのはあまりいい気がしない。 それでも妖なんて放っておけば長く、人間からしてみればそれこそ永遠に生きるくらいなのだから、彼にとってたまたま今がその時なのだと思えばそれは自然の摂理である。 死んじゃうのォ、と流石にいつものクスクスとした笑いをやめて、不思議そうに真紅達も首を傾げる。 『やだ…っ、やだよ、まだあたし、君の名前も聞いてない…!お礼も言ってないのに…やだ…!!』 微かな雨と土のにおいに混じって薫る、圧倒的な鉄の臭い。 響き渡る、みっともないくらいの少女の嘆き。 訪れた沈黙に、全てをまとめて嗚呼ひどいな、と思って、彼岸はふと少女と狼から視線を逸らした。 すると何故か、少し首をこちらへ向けていた死樹が音も立てずに静かに唇に弧を描く。 任務でもないのに、鎌もないのに、彼らは何にも抗ってはいないのに。 これまでしっかりと握っていた傘が奪われたのは、思考を巡らせる暇もない、それからすぐのことだった。 直感で来た、と悟る。 『化け猫のお嬢さん、あなたが俺達と約束してくれるなら、その狼を助けてやろうか』 『や、くそく…?』 『俺は治癒は使えないけど、この鬼ならそれくらい治すのに造作もない。なぁ、彼岸』 『ぁ…あぁ、まぁそういう特性だから』 どうやら死樹はまだ右目のことを根に持っているようで、今度こそこちらへにこやかで完璧な笑顔を向けてくる。 そのまま俺の為に頼むよなんて言われたら、断れるはずもない。 彼岸が渋々一歩前に出ると、今度は死樹がその毛先に黒を帯びた銀髪が濡れぬよう傘を差しだした。 ![]() 絶望とは愚か者の結論だ |