冬砂糖

その境界線を越えてはいけない

死樹と彼岸達が、あくまで現時点で拠点とする洞窟から出て、西の方角へ一つ山を跨いだところに、その教会はあった。

武士が沢山の血を流し、多くの人々が死んだ時代。
たった一瞬訪れた平穏。
どうにもできない程の絶望を含んで、多くの意思を玉砕した時代。
そして――開かれた異国への道。
見慣れぬ大きな船が港へと到着し、顔つき、服装の違う人間が訪れたことをつい最近のことのように覚えている。
実際に人一人の生涯を挟むほどの月日はまだ流れていないと思う。
この教会を造ったのは、そんな変わった船からやってきた西洋人の男達であった。
様々な色合いの硝子に、沢山の長椅子。
畳の施されていない床は、彼らが歩けばコツコツと変わった音が響く。
入り口から最も奥のところに祀られたものは変わった形の十字型の金属で、これは彼岸にも見覚えがあった。
少し前の際にあった争い。沢山の首が飛んだそんなまだ妖の肩身が狭くもなかった頃、一部の人間が持っていたもの。
寺や神社と対になる――異教徒の崇める祭壇。

満月が高く昇る夜。いつか遊郭の封印を解いた時のように、死樹が両手でその金属の取っ手を握り、重そうな赤茶色の扉を開いた。
深い深い闇に包まれたそこで、上にある絵が描かれた硝子から射し込む光が、奥にある十字を照らし出す。
微かに響いている呼吸と水音に、これはまた厄介な奴がいるのだと彼岸は本能的に悟った。

『彼岸、お前英国の言葉って話せるか?』
『…無理だよ、こんなギリギリで』
『だよなぁ』

首を少し後ろに傾けての死樹からの耳打ちに、困ったように首を振る。
前回もそうだったが、突然ついてこいと言われてこんなところへやってきて、何の準備も出来てはいない。
今から備えられるとすれば、最早もしもの時の心構えのみだ。
彼岸の呆れ気味の回答を死樹は嗤うと、一歩、また一歩とまっすぐ祭壇へと伸びた赤い絨毯の上を進んで行く。
異国の男達がいい音を響かせていた床も、何年も使い古している草履では掠れた引き摺るような音しか鳴らない。

ある程度真ん中まで道を進んだところで、不意に死樹は足を止めた。

『だれ?』
『――あぁ、日本語いけるみたいだ』

ぼんやりと映し出される前方に、血のように赤い瞳が浮かぶ。
クスリと肩を揺らした死樹とは対照的に、彼岸はふ、と軽く息を詰める。
噂のコツリという音が床に響き、祭壇に腰かけていたらしい男がふわりと立ち上がった。
同時に何か抱えていたものを、横の方に乱暴に放り投げる。
重く鈍い音が右側の暗闇から響いて、同時に溢れた例えなんかではない鉄の臭いに嗚呼と思う。
そうして漆黒の奥から姿を現した男は彼岸達より幾分若く見え、恐ろしいくらいに白い肌で――口許に飛び散っている血液を、乱暴にフリルのついた袖で拭いながら舌を滑らせた。

『白いね。血、足りてないんじゃない?』
『…余計なお世話だから。日本の妖に構われたくない』
『彼岸は兎も角、俺結構世界共通だと思うけどな。まぁいいけど』

男の言葉に死樹が白々しく肩を竦めると、彼の赤い瞳が僅かに細められる。
明らかな言葉に煽るなと今すぐにでも止めたいが、生憎彼岸は心中でそう思いながら唇を噛むしか術がない。そう出来ている。
男が一歩、また一歩と踵の高い靴を鳴らし、こちらに近づく。
毛先が赤黒く染まっている白金色の髪は、月光に反射して青白く輝いた。
黒い生地に赤いフリルがひたすらあしらわれた、ここらでは見られない西洋の衣装だ。
睨みつけてくるその双眸は、露骨な警戒が現れている。
今にも仕掛けてきそうな緊張感に、面倒だなと思わず考えた。

しかしそんな彼岸の気など知れず、死樹も応えるように一歩前へと進む。
お互いが手を伸ばせば届きそうになった距離で、唐突に着物の襟を緩めたのはあろうことか死樹本人だった。
寝首を掻いてくれと言わんばかりのその行為に、彼岸の方がぎょっとしてしまう。

『女じゃなくて悪いけど、力には多少自信があるから――取引しよう』

現れた首から鎖骨にかけてのラインに、男が微かに指先を跳ねさせる。
死樹がその線をなぞるように爪を掛ければ、紙のように簡単に肌が避けてぷくりと血が溢れた。
滴る液体に、男は一瞬だけ視線を彷徨わせて喉を鳴らす。

――彼は、吸血鬼らしい。

ぐらりと甘い香りに酔った吸血鬼が、一歩ゆらりと踏み出す。
そのまま死樹の肩を掴んであと一歩、獣が餌を与えられる寸前のように苛立ちを露わに息を吐いた。
虚ろな、それでも確かな声が震え交じりに紡がれる。
血を特別欲しないただの鬼にはわからないが、きっと死樹のような特殊な妖の血は吸血鬼にとっては毒のように甘いことだろう。

『男で悪いけど、飲みなよ。今の状態じゃ足りないだろう?』
『…条件は?』
『どうしても、殺さなきゃいけない奴がいるんだ。力を貸して欲しい』
『…それだけ?』
『“お嬢さん”には触ったりしないと誓おう』

ぎらぎらと光る双眸は、あくまでもうっとりと死樹の血を捉える。
折角髪に揃えて綺麗にした死樹の白い着物に、また赤い染みが広がっていく。
ゆるやかに開かれる男の口許には立派な犬歯が見て取れた。

『餌を見せびらかしながらって狡いよ、あんた』
『よく言われる』

刹那、軽い肉を破る音と、微かな死樹の呻きが月下の教会に響き渡る。
ごくり、と一度男が喉を鳴らすと、更に重ねて何かを啜る音が。死樹が浅く呼吸を零すと、合わせてその肩がぴくりと揺れた。
最早不快感しか覚えない絵面から、彼岸は眉を顰めて目を背ける。
遊郭から連れ帰ってきた弟がこの間彼岸のことをひどく睨んでいたことを覚えているが、こういう気持ちだったのだろうか。
彼岸にとっては気が狂いそうなほど長く感じられるほどの時間が経ってから、男は噛み痕のついた首を軽く一舐めすると、ようやく死樹を解放した。
ぐらりと傾いたその身体を、はと我に返った彼岸が慌てて受け止める。
覗き込んだ顔は、それこそ蒼白だった。

『死樹、』
『…ただの立ち眩みだ。だいぶ持っていかれると、思ったよりキツいなぁ』

そりゃ死樹に致命傷を負わせることが出来る妖なんて、そこら辺に何体もいるわけではないのだから貧血なんて言葉とはこれまで無縁だっただろう。
いつものようにこんな雑用、名を呼んで無理矢理この鬼に任せてくれればいいのに。
しかしようやく死樹が彼岸に掛けた言葉は、肩を貸して欲しいという随分呆気ないものだった。
一方死樹の血を飲んで満足したのか、男はいつの間にか奥の祭壇へコツコツと戻っていく。
長椅子に掴まりながらも頭を押さえて立ち上がった死樹は、ふらふらしながらも男との会話をまだ続けるようだ。

『とんでもないお兄ちゃん、だねぇ』

丁度雲が動くと、更に月の光が天井から射し込む。
露わになった祭壇の上には黒い銀の線が入った棺桶が置かれており、吸血鬼の彼がそこを開くと、黒い布で口と目を塞がれ、手足を拘束された――同じく白金色の長い髪を二つに束ねた磁器人形のような少女が現れた。
男の血のように赤い瞳が微かに細められる。丁寧に拘束を取りながら、微かにその唇が何かを呟いたのを彼岸は見逃さない。

――レミリア、と。

それと同時に隣の主人が、不意に彼岸から離れようとして一瞬ずるりとバランスを崩すのでまた改めて捕まえた。

『昔はいくら血を流しても、こんなになったりしなかったのにな』
『…自業自得だよ』