ふと意識が戻ったとき、男は何故かそこにいた。 満月が綺麗な、或る宵のことだった。 暗い空に輝く丸いそれを月と認識し、周囲に散りばめられている沢山の光の粒を星と覚り、木々に囲まれたこの場所はただ森なのだとはわかったが、自分が一体何者であり、なんという名なのかはわからなかった。 そもそもどうして、日の堕ちた中こんなところに突っ立っているのか。 己の両手を確認しても、何も手がかりはなくきょろきょろと周囲を見渡しても、誰かがいるわけではない。 下を見下ろせば、淡い金色の髪が目に入り、軽く引っ張ってみたところで感じた痛みに、男はようやくこの髪が自分のものだと知る。 ならば瞳は、鼻は、唇は。一体どうなっているのだろう。 男には、単語そのものの存在、場所、それがわかっても自分に関わるものすべての記憶がなかった。 ――僕は一体、 ぼうっとする頭で考えても、生憎何もわからない。 夜はひどく恐ろしく、深いものだから普通はこんなところにいてはいけない。 自分が何かは知らないが、夜目が効かないなら今男がここにいることは相応しくないに違いないのだ。 しかし男には、その意識さえあるものの肝心な、“帰る場所”がわからなかった。 この森が何処にある何という森なのかも知らないのは当然として、どっちに進んでいいかも一切判断がつかない。 それほど低くない視界なのに、どうして自分はこんなに知らないことが多いのだろう。 目にしたもののことはなんとなく認識出来るものの、いざどうすればいいのかと思った瞬間、途端に何がなんだかわからなくなる。 泣いたっていいくらいの心細さが、じくじくと胸に突き刺さるように広がっていく。 『…、ここ、は』 ――何処で。自分は一体何のために、 胸に爪を立て言葉を呟けば、高いような低いよな、嗚呼それでもかろうじて男かと察せるくらいの掠れた音がぽつりと落ちる。 ぐるぐる巡る思考の中で、ようやく得た二つ目の自身に関する手掛かりに浅い息を零した。 金色の髪の、男。たったそれだけだが、わからないよりよっぽどいい。 付け足すならば淡い空色の着物を着ていて、黒い羽織も身に着けている。 ――あれ? そこで初めて気付いた違和感に、思わず顔へ手をやればかちゃりと何かが音を立てた。 何かが、ついている。 外し方さえわからなくて、そのまま両手で伝うように後頭部へ手を回せばそこで更に蝶々の形に結われた紐の結び目を発見した。 先を引けばしゅる、と音がして、今度こそかつんと一層大きな音が響く。 顔から取れて地面へと落ちたのは、鼻の辺りが立体的に伸び、頬と額には赤い紅が挿されている白い面だった。 細い目に、なんだか不気味に弧を描いているように取れる口許。 しゃがんで手に取ってみるものの、一体これは何の面なのか。 その正体は喉元まで出てきているはずなのにそこで引っ掛かり、結局思い出すことは出来なかった。 それでもこうして目にしても思い出せないのならば、自分に関わる何かがあるのかも知れない。 再び紐を結い、頭に面を乗せるもののさて、これからどうしよう。 見知らぬ土地、何もない目的、真っ暗な夜、得体の知れない自分。 しゃがんだまま俯いて、一体どれだけいただろうか。 ズキン、と軽い痛みを頭に覚えたのは、それが初めてだった。 しかしそれも、衝撃さえ強いものの実際はそこかへ軽く頭をぶつけたぐらいの、些細な痛みであった。 渋々顔を上げてみると、何もなかった脳内へぼんやりとある言葉が浮かぶ。 『…――、きせき?』 男は覚えのないそれを、ただ口に出してみた。 すると何故か、それが少女の名であり、自分が逢うべき相手なのだと瞬時に悟れた。 『…、希隻』 覚えのない名に、ひどく懐かしさと愛おしさを覚える。 嗚呼、彼女に会いに行かなければ。 ――そう約束、したじゃないか。 見えないけれど、確かなもの |