18


ハッと、何かを思い出した気がした。
まだ辺りが暗い中目覚めた希隻は、形ばかりの蒲団に寝ころんだまま、ぱちぱちと何度も白く長い睫毛を瞬かせてみる。
寒い。身体の芯に、訴えかけるようにひんやりとした気配を感じる。
そしてそれが、もうずっと長い間この日に焦がれていたかのように愛おしい。
否、実際希隻はずっとこの時を待っていた。
太陽の昇りが遅く、辺りがまだ真夜中のように静まり返っている世界。
そこにやってくる指先まで震わすような気温。しかしその震えは希隻の場合、喜び故の興奮に当たる。

ふぅ、と甘い息を一度吐いてから、飛び起きるように身を起こした。
日中つけている帯を手に取り、慣れた手つきで腰に大きな蝶々の形を作って整える。
白銀の透けるような髪にも少し大雑把に櫛を通せば、準備は完璧だ。

まだ誰もが寝静まっていて、しんと静まり返った戸を開ける。
昨夜の使ったままの状態の、いくらか炭の貯まった囲炉裏に薪を用意し、火を点けてから更に足早に外へと繋がる扉へと急いだ。
石の上に丁寧に揃えてある二つの草履のうち、小振りな方を手繰り寄せてそこに足を入れる。
嗚呼、この日をどれだけ待ち望んだことだろう。
ずっとずっと、心の奥底の本能が歓喜していることがわかる。なんせ今年初めてなのだ。
この扉を開ければ、きっとそこは一面の――。

『わぁ…!』

期待通り広がった銀化粧に、希隻は思わず感嘆の声を挙げた。
それにほんのりとだが、また雪は止んでいない。
長く生きているとはいえ、たった十数ヶ月前に見た景色でも夏を挟むと随分久しく感じられる。
冬がきた。それは即ち、雪男や雪女である自分たちの季節がきたということだ。
逸る気持ちを抑えつつ、取り敢えずまだ誰も歩いていない、真っ新な雪の中を駆け巡ってみようと一歩踏み出す。
さくり、と微かになった音が心地よかった。

『――おい』

しかし、そんな胸いっぱいに広がっていた興奮とときめきは、不意に背後に現れた外とは別の冷気と、鋭い声によって制される。
希隻が慌てて振り返ると、羽織を数枚肩に掛けた凛とした男が、顔に似合わず小さくくしゅんとくしゃみをした。

『まだ暗いのに、何処行くんだ手前は』
『し、白雪さん。おはようございます…』

続けて軽く鼻を啜り、眉間に皺を寄せた彼はせっかく希隻が踏み出した至福の一歩を咎めてくる。

『えっと、…その、雪が積もったのでちょっと社の周りを歩こうかと』
『外を歩こうって、まだ日も昇ってないだろ』
『お、起こしてしまったならすみません…』
『そういうことじゃない、手前と同じように一応気付くことには気付く。積もったのが嬉しいのはそれなりにわかるが、まだ暗いのに一人で外なんか行くなって言ってんだ』

まだ外も暗いうちからガサゴソ起き出したことに対しての謝罪をすれば、そうではないとその美貌がさらに歪んだ。
一応白雪のことを考えて先程囲炉裏に火を灯したのだが、白雪が言いたいことはそちらではなく、まだ暗いのに外は危険だろうと、どうやらそっちの方らしかった。
未だ扉に手を掛け、踏み出した一歩をなかなか戻せずにいたが、続けて白雪が肩を擦りながら『寒いから閉めてくれ』というので名残惜しく思いつつ、その恋焦がれた雪化粧を再び遮断する。
兄と別れてからずっと今まで一人で暮らしてきたのだ。
希隻にとっては暗いも危険もあったものではないのだが、一方の白雪にとってはそうではない。
それに今は夜継が遠征に行ってしまって、この社には希隻と白雪の二人しかいない。なので余計に勝手なことをされたら困るのだろう。
それが彼の嫌っている「寒さ」であれば当然だった。
だからこそ希隻は白雪が寝ているだろうと踏んだ早朝を選んだのだが、その選択は間違いだったとこの現状が示している。
嫌そうに眉を吊り上げる白雪と対照的に、思わず眉をハの字にして溜め息を零した。
兄と暮らしていた時は、早朝でも希隻が目覚めるなり兄を起こし、いつの時間だって構わずに兄妹揃って外で暫く過ごしていた。
しかし今ここにいる二人では、それが叶わない。

『泣くなよ』
『え?いえ、泣いてはないです』
『でもそんな顔になってんぞ』
『……、ちょっと兄のことを思い出してしまって。気にしないでください』
『あー……悪かった』

しんみりとした空気の中、首を横に振ってやんわりと否定すれば白雪まますます顔を顰めた。
たった今まで浮かべていた苛つきと困惑のような表情が、そこに加えて呆れを滲み出している。
白く長い角張った手を額へ当てると、そのまま漆黒の髪をくしゃりと乱した。
そのまま小さく唸りつつ、ただひたすらにその顔が歪む。折角の凛とした眼差しを持つ美貌が台無しだった。
その寄せられた眉根と細められる瞳が、彼の怒りをひしひしと伝えてくる。
積もった雪は明るくなるまで残るだろう。しかし、今ふわふわと降っている雪はきっと日が昇る頃には止んでしまう。
白雪は――この空に、雪に、一つの魅力を感じないのだろうか。

『あの。白雪さんは雪、お嫌いですか?』
『…。そんなこと聞いてどうする?』

低く唸る彼にふと声を掛けると、一瞬だけ表情を戻して、溜め息交じりに質問で返された。
その表情が何故か寂しそうに見えて希隻はそこで初めて、白雪はひょっとして怒ってなんかいないのではないかと気付く。

『嫌いじゃないっていえば満足か。でも俺はこの雪の中、外に出られない。手前一人も、行かせられない。俺が手前の兄貴のように強くないからだ』

白雪は、希隻を心配している。そして且つ希隻と自分との決して埋まらない差を悲観しているのだ。
自分が今ここにいて、希隻や希隻の兄と違うことを痛感している。
今ここにいるのが白雪以外の雪男や雪女であったなら希隻はよかっただろうと、と先程の謝罪はこちらの意味に違いない。
自分がこんなだから、希隻がこんな夜中に一人で外に行こうとしている。そして、その原因がその行動を咎めている。否、咎めるしかないのだ。
一方で希隻は自分の勝手な暗いうちの行動を、白雪が単に怒っているのだと思っていたが、そうでないのなら。
言われてみれば最悪な状況だった。
幸い、白雪が思っているほど希隻はか弱くはない。
不意に襲われると驚きはするが、きっとそんなに簡単に捕らえることのできるお姫様ではない。雪が降っているのなら尚更、希隻にとっては有利になる。
希隻は一か八か、すっかり顔を顰めるのすらやめてしまった白雪へと呼びかけた。
どこか遠くを見ていた視線が、ふと再び希隻へと戻ってくる。

『じゃあ、外っ!白雪さんも一緒に行きましょう、』

その言葉に目を見開いた白雪は、長い長い沈黙のあと「はぁ…?」とまたその美貌を歪ませた。






僕らが在るために