鈴音からの言葉に、彼岸は眉根を寄せながら困ったなと思った。 否、正確には困ったどころではない。 気持ちとしては、面倒臭いことになったなと――そっちの方が正しいだろう。 近頃は調子も良くなり、侵夜は一人で出歩くことが多くなって彼岸も姿を見ることが減っていた。 何も監視していたわけではないので、それは構わないのだ。 寧ろ鈴音と適当に会話もし、真紅達とふざけあって笑う姿もたまに見かけることがあったほどで、最近まで本能に忠実に荒れていた男が回復したと捉えると、悪いことではないくらいである。 しかし、彼がもう数日帰ってきていないとなると話は変わってくる。 やはりあれだけのことをした男の元に滞在するなんて嫌だったのだろうか。 それならそうと言ってくれれば――彼岸も彼の味方をし、主人を説得しようと努めたかも知れない。 また何処かで共食いなんてしていたら、それこそもう駄目だろうなとは思うが、そんなことはあくまで他人の同情である。 彼岸にとっての問題は、「彼がここから逃げ出した」ことではなく「主人が連れてきた彼が無断でここからいなくなった」ということなのだ。 ひどく気まぐれな主人の顔を脳裏に思い浮かべながら、彼岸は露骨に溜め息を吐いた。 * 『侵夜のことだけど』 葉がほとんどついていない大木を仰ぎながら、彼岸は少し声を張り上げる。 ようやく見つけた主人は、そろそろ日が傾きつつある茜色の光を浴びながら、洞窟の側にある一本の樹の幹に腰を下ろしていた。 根のところでは、いつの間に戻って来たのか、先程まで姿が見えなかったはずの真紅と瑠璃が楽しそうにぴょんぴょんと上を目掛けて跳ね、クスクスと笑っている。 彼岸がそこに近寄ると、左右から「彼岸さま、上げてェ」と袖を引かれた。その小さな手を首を振って拒む。 そもそも本気で登りたいのなら、いくら姿は小さいと言えど、彼女達も死樹に認められるだけの妖ではあるのだから自力で何とか出来るはずだ。 どうせまたこうして彼岸のこともからかっているのだろう。 いつだったか死樹はこの二人を見て彼岸にそっくりだと評したが、彼岸は寧ろ死樹の方に似ているのではないかと時々思う。 ――例えばそう、今だって。 案の定彼岸が改めて樹の上を見上げれば、機嫌よさそうに煙管を吹かせた死樹と目が合った。 その口角が、ほんの僅かに持ち上げられていることを彼岸は見逃さない。 そうしていつもより、少しばかり楽しそうな唇が、登らせてやれば?と適当な言葉を紡ぎながら煙をふっ、と吐いた。 本当にそう思うなら、死樹が自分で彼女らを引き上げてやればいいのだ。 他の妖達を、彼岸に断りなく集めているように勝手に。見境なく――勿論、そんなことを彼岸は決して口にしないが。 透けるように美しい死樹の銀色の髪は、色を持たない冬の空によく似合う。 『そんなこと思ってもいない癖に。って、違う。そうじゃなくて』 『上がってきたら。声が聞こえ辛い』 ――嘘だ、 思わず眉根を寄せて、軽く息を洩らす。 きっと死樹には、充分すぎるくらい彼岸の言葉は届いている。内容だって、先程の短文だけでわかっているに違いない。 ただ 彼岸の予想では、侵夜という名にもっと突っかかるように反応するかとも思っていたので、わざわざ話を聞こうとするその仕草だけが意外だった。 こちらを見下ろす 黒い隻眼が、軽く細められて彼岸を招く。 わざわざ隣へ行ってまで、主人に話す内容が彼岸にはない。伝えるべき内容が主人へ伝わっているのなら尚更だった。 彼岸が今度は少し躊躇って、首を横に振ろうとすると、その代わりに隣にいた真紅達がまた口々に「登りたい!」と駄々を捏ねる。 そんな二人の言葉には、やはり死樹は彼岸にお願いしな、とまた空へ視線をやって煙管を吹かすだけだった。 左右から訴えるように寄越されるその視線に、やはり彼岸は首を振る。 登りたくないし、登らせたくもない。 死樹が降りてくるべきなのに、彼は彼岸に隣へ来いと言う。 結局互いに折れないので、 仕方がなく彼岸は少し多めに息を吸い、改めて声を張って言葉を紡ぐことにした。 『侵夜、出て行ったけどいいの?』 『あぁ。出て行ったの。相変わらず困った奴だなぁ』 今度こそと呆けられない音量で告げた言葉に、死樹はクハッと笑っただけだった。 この反応からして、もうこちらが告げに来る前から死樹は侵夜のことについて知っていたに違いないと彼岸は確信する。 からかっているのだ。だから彼は、笑っていた。 さらに何が面白いのか、 薬にでも当てられてるんじゃないかと彼岸が不安になるほど、彼は暫く一人上で楽しそうに肩を揺らして笑っていた。 樹の枝分かれの部分から垂れる、死樹の白い脚もその動きに合わせてゆらりと何度か揺れる。 彼岸もヒトのことを偉そうに批判は出来ないが、あんな風な着こなしは色んな意味でも心配だ。 それに肌が出れば出るほど、負う傷は増えるし負った傷は晒される。 『…、ねぇ死樹。そろそろ何企んでるのか教えてよ』 こんな風に訳ありみたいな妖を集めて。 そんな風に可笑しいくらい楽しそうにして。 元々掴みにくい適当な男だったが、最近はますますすり抜けられている気がする。 彼岸が思わず愚痴っぽく洩らした声に、 いつの間にか逸らされていた隻眼の光が、また彼岸の元へ戻ってくる。 それでも尚、彼は嗤っていた。 『上がってきて。隣』 『 『あっ、しんくとるりもォ!』』 『お前達はだめ。彼岸だけ』 先程の「来るか?」とは違う言葉に、彼岸は思わず青い双眸を迷うように伏せた。 横では真紅と瑠璃が、わざとらしく唇を尖らせてまた跳ねている。 観念してゆっくりと息を吐きながら、ようやく樹の幹に手をつけば、上から降ってくる死樹の言葉がどこかぼんやりと聞こえる。 先程まで自分達の聴力は並み以上にあるのだから聞こえないはずがないと思っていたが、嗚呼これは本当に聞き取り難いなと思った。 隣に行けば、彼は話してくれるのだろうか。 それともまたいいように言いくるめられて、それで終わってしまうのか。 それでも、主人が――死樹が隣に「来い」と言うのなら行かなければ。 幹にあった小さな窪みに足を掛けると、彼岸は遂に乾いた地面から身を浮かせた。 死樹がそれを見てもう一度、わざとらしく空へ煙を吐いて見せる。 手首に響く甘い痛み |