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――誰かが自分を呼んでいる。

ふと青い双眸を開いた白雪は、視界に広がった木々達をぼんやりと見つめてからようやくそこに見慣れない純白が広がっていることに気付いた。
こちらを覗き込んでいたその雪のように白い少女は、白雪の意識が戻ったことに気が付くと、ほっと息を吐いてから優しく静かに、それでいて震えたような問い掛けてくる。

『大丈夫ですか?私のこと、わかりますか?』

ゆっくりとその唇の動きを観察し、彼女と対照的な黒い睫毛を何度か瞬かせたところで、ようやく白雪は、先程から何度か脳裏に響いていた泣きそうなこの声が純白の同胞――希隻のものであると理解した。
それでも未だ、次第に把握できてきたこの世界の音をどこか他人事のように捉えつつ、自分は一体先程まで何をしていたのか――そこまで考えて、ようやくハッと慌てて身体を起こした。
その動きに合わせて、希隻が小さな悲鳴をあげてやっとのところで白雪の頭突きを躱す。

『希隻。今何時だ?ここは?俺の他に誰かに会わなかったか?』

意識を失う前の記憶を、懸命に手繰り寄せて眉根を寄せる。
確か自分は、些細なことで夜継に苛つき喧嘩をした。
そして勢い任せに希隻の社を飛び出したのだ。
何処か遠くに行きたくて、ひたすら歩いてここに来た。そこまで距離は離れていないと思うが、生憎白雪にはあまり見覚えのない場所だ。
しかし希隻がこうしているということは、白雪自身が思っているほど社からは離れておらず、箱入り娘であった彼女でも把握できている距離にある箇所なのだろう。

突然の沢山の質問に一瞬戸惑ったような顔をした希隻だったが、表情を引き締めると、すぐにそられの問いに正確に答えてくれる。

『私が来てから、大体三十分経ったぐらいでしょうか。ここは私達の森から、少し出たところぐらいです。それから白雪さんの他にいた方ですが、生憎私はお会いしていません。でも私が来る直前、ここにいた誰かの気配は確かに感じました。けれど私がやっと辿り着いた時は、誰ももうここにいなくて、白雪さんだけが倒れていたんです』

ふと視線を落すと、白雪が寝ていたことに合わせてか、申し訳ないことに希隻はその真っ白い着物を砂で汚しながら地面に正座していた。
しかもどうやら、たった今まで白雪はその膝を借りて呑気に気を失っていたらしい。
通りでこの真っ黒い髪には砂屑一つついていないわけである。
希隻の言葉に頷いて、肩に手をやり適当に首を回しつつ、白雪はもう一方の手でそっと項を擦る。
傷そのものはないようだが、まだ微かに痛みがある。あの男に殴られたことは間違いない。

『…俺のこと、夜継に言われて探しに来たのか?』
『……そう、ですね。どうすればいいか戸惑った私に、指示してくれたのは夜継さんです』

自身の状態を確認しながら何気なく天を仰げば、先程より随分日が影っていた。
あっという間に夜になるだろう。冬の陽なんて瞬く間に暮れてしまう。そしてそうなると気温も著しく低下する。
感情的になった白雪とは違って、夜継は何もかもお見通しなのだ。
先程の状況説明と違い、どこか歯切れ悪く答えた希隻を一瞥すれば、彼女は申し訳なさそうに目を逸らす。

『夜継の腕はどうした?』
『…こっちを優先しろと言われたのでそのまま来ました。本当にすみません』
『…手前が謝ることじゃない。俺こそ悪かった』

自身もいつまでも砂の上に座っているわけにもいかず、白雪がふらりと立ち上がって着物の裾の砂を払うと、希隻もそれに倣って慌てて腰を上げる。
白雪が夜継へ放った力は、本当に鴉天狗如きにどうにか出来るものであったか、何も考えずに夢中だったのでそれすらもう曖昧だ。
しかしあれだけ偉そうに飛び出した手前、どんな顔をして彼の元へ帰ればいいのかもわからない。
夜継は怒っているだろうか。もしくは万が一、大事に至っていたらどうすればいいのだろう。
早く帰らなければ――そう思う反面、心の奥底ではもう一人の自分が未だに帰りたくないと駄々を捏ねている錯覚を覚える。
思わず眉根を寄せて息を吐けば、その白雪の行動を受けるように隣の希隻が不安そうに俯いた。
白雪は夜継を傷つけたいわけではなかったし、勿論希隻にこんな顔をさせたいわけでもないはずだ。それはわかるが、上手くいかない。

暫く二人で突っ立ったまま沈黙し、ふわりと吹いた風に白雪が無意識に肩を擦ったところで、希隻が耐え兼ねてかふとその袖を引いた。

『もう、帰りましょう?』

その言葉に白雪は思わず横を振り返るものの、やはり希隻は俯いたままだった。
ただその白い指先が、控えめに――だがしっかりと離さないように白い着物の袖を掴んでいる。

『あんなことをした俺に、まだ帰る場所なんてあるのか?』

意地が悪いとわかりつつも、やはり口に出さずにはいられない問いを今度はこちらから掛ければ、真っ白な少女は更に指先に力を込めて弱々しく続ける。

『無理矢理にでも連れて帰って来いと言われました。夜継さんは心配してます』

そう言ってようやく顔を上げた小さな同胞は、白雪が目覚めた際より更に泣きそうな顔をしていた。
綺麗な、唯一白雪と同じ色を持つ青い瞳がすっかり濡れていて、今にも雫が零れそうに潤んでいる。
続けて、今度はざわめく木々の音に掻き消されそうな小さな音で、白雪さんまでいなくならないでくださいと、唇が震えた。

そういえば彼女の兄は、こんな弱い彼女一人を故郷でもない森に残して自分勝手に姿を眩ましたのだったか。
美しく、素晴らしい力を持ち知識をも術っていた雪男。
同胞の中では然程特別でもない容姿、本来そぐうべき気温に適さない身体。
一族の恥に近い特性に生まれた白雪とは何もかもが違う。
しかし白雪なら、自分のことを慕ってくれる妹をある日突然棄てるなんて、そんな愚かで残酷なことは決してしないだろう。
逆に言ってしまえば、そんな度胸がないのだ。
慕ってくれるヒトを持て余すほど、恵まれた人生を白雪は歩んでこなかった。

白雪が目を細めて返事を躊躇っていると、それを迷っていると取ったのか、希隻は重ねてお願いします、と呟いた。
その頼みが「いなくならないでくれ」というものに掛かるのか、それとも「帰って来てくれ」というものに掛かるのかはわからない。
しかし知識がなくとも、希隻より白雪の方がこの世に生を得ての月日は長い。
白雪には彼女の兄のように世界を統べる力はないが、彼女のこの言葉に、そして迎えを寄越してくれた夜継の意思に応えることは出来る。
そこだけがきっと、その雪男に唯一今の白雪が勝れる点ではないだろうか。

希隻の兄は凄い男だ。けれど同時に、とてもひどい男に違いないとも思う。

『…そう、だな。戻るか』
『!、有り難うございます…っ』

ぽつりと頷けば、希隻はたった今まで不安で押し潰されそうだった表情をぱっと変えた。
ふわりと浮かべられる笑みは、雪のように優しい。
よくよく考えてみれば、自分より幼い少女がずっと一人で或る者の帰りを信じて待っているのに、どうして自分にはそれが出来ないのだろう。
悪かったと素直に謝れば、夜継は許してくれるだろうか。






照らす光は淡く