15


――寒い、

冬のまだ、日の高くない時刻に羽織り一枚だけ。こんなところで自分は一体何をしているのか。
身体の奥底から昂ぶる妖力に、ほとんど思考を呑まれた状態でぼんやりと考えながら腕を擦り、疲労か呆れかもわからない白い息を零す。
隣に誰かがいないだけで、こんなにも寒い。
いつものあやすように頭を撫でて、少しでも冷えがマシになるように包んでくれる暖かい妖力がない。
馬鹿なことをしたと思う。
しかしあれだけ喚き夜継にあんな氷を放っておいて、今更どんな顔をして帰ればいいのか。
夜継はきっと白雪の言いたいことがわかっていたのだろう。
勿論夜継の言いたいことだって白雪もわかっている。
それでも、不安なのだから仕方がない。一度口にしないと、言わないと、どうにかなりそうだった。
熱でもあるのではないかと思うほど、熱くて寒い。不安だけが沸々と胸に溜まって溢れてく。
希隻もいたのになんて滑稽なことだろう。
時々吹く風と冬の気温に、びくりと身体が震える。
思い出すのは、夜継と出逢ったあの日のことだった。
黒く羽ばたく翼は美しく、それでも明らかに奇妙で、それこそ地獄へ連れていかれるのではないかとさえ錯覚したほどだ。
同時にあの時はそれでいいとも思っていた。本当に、自分の中に何もなかった。
初めての誘いは、確かに空っぽだった白雪の人生を変えたのだ。


*


一体どれだけ歩いただろう。
この森に来てすぐ、一応大雑把にここについて案内はされたが、正直あまり遠いところは覚えていない。
そろそろ自分が何処辺りを歩いているかもはっきりとわからず、次第に重く感じる足を引きずるように進んできたところで、初めてふと微かな違和感に気付いた。

『――どこォ?』
『――やァ、―…きさ――また怒られ――うよォ』

耳を澄ませば、微かに声が聞こえる。

誰かを捜している、高く周囲に浸透する間延びした子供の声だ。
幸い距離がまだあるのか、ここからでは妖か人かは定かではない。
人間ならどうでもいいが、仮に妖だったとしてもよっぽど五感が優れた種族でなければ、まだ大きな声も出していないこちらの存在はバレてはいないに違いない。

『…やば、』

できれば、今は誰にも会いたくなかった。
ざっと音を立てて、足を止める。
このまま進めば、向こうと出逢う確率がぐっと高くなる。
普段ならある程度戦えるだろうが、こんな状態ではきちんと力を操って、相手を組み敷ける自信は流石の白雪でもない。
苛立ちと困惑、走ってきたことからの不安定な心拍数。昂ぶる熱に寒気。
もっと、もっと落ち着かなければ駄目だ。
慌てて胸を押さえて青い双眸を伏せてみるものの、そう簡単にどうにかできるものならそもそもこんな風に焦ったりはしない。
試しに一歩進めば、ぱきりと踏んだ小さな枝が軋む。
また一歩と踏み出せば、今度はざわりと周囲の木々が揺らめく。
いっそのこと、一か八かで躱してみようか。
戻ることも嫌で仕方なく更に歩みを進めれば、不意に擦る腕を背後から何者かに捕まれた。

『侵夜ァ、』
『っ、!!?』

一瞬声主である子供にバレたのかと思ったが、力的にもそうではない。
とっさの抵抗よりも先に、ぐいっと近くの草影にそのまま引き込まれて、途端に耳元で響いた聞き覚えのない低音に思わず身が凍る。

『ちょっとお兄さん、静かにして』

男の声だ。息を呑み、後ろを振り返ろうとしたところでその大きな手が、唇から短く零れた白い呼吸を再び押し込むように白雪の口を塞いだ。
紡ごうとした罵声が、空気となって指の隙間から言葉にならずに抜けていく。
コレは、妖だ。

――嗚呼、どうして気付かなかったんだ、

『そんな怖がんなくても、あいつらからちょっと俺の気配誤魔化してくれるだけでいいから――ってあぁ、ひょっとして寒いの?』

震える肩に、男がゆっくりと手を置く。首元に迫った顔が、すんすんとにおいを覚えるように鼻を鳴らす。
自分でもおかしくなったのではないかと思うほど、恐怖を象った大きな鼓動が他人事のように響く。
もがけばそれこそ得体のしれない恐怖に怯える子供を親があやすように、逃がさないと言わんばかりに全身を捉えられた。
一見優しい声色での頼みとは裏腹に、酸素さえ絞る口許を塞がれる手とその力に狂気さえ覚える。

『っていうかお兄さん、今超ヤバいぜ。すげぇ妖力の匂い洩れてる。まぁ殺気でもないし相当偉い奴か嗅覚冴えてる奴じゃないと気には留めない程度だろ』
『っ――!』

男の指が首を滑れば、堪らない不快感が背中を駆けた。
再び鼻が近づけば、今度は唇を近くに感じる距離でにおいを嗅がれる。
つまり彼は獣、なのだろうか。これこそきっと五感が優れた種族に違いない。殺される、と直感的に思う。
暫くは懲りずに暴れてみたものの、結局ここで先程の子供に駆けつけられても困ると悟ったところで、男の顔もわからないまま、首筋に刃物を突き付けられた人質のようにただその高い捜索の声が消えるのを待った。

『ぁ。もういいな、助かった』

二人して息を潜めて、ようやく拘束を緩められたのは白雪が背中に感じる肌の温度に目を伏せたその時だった。
その一瞬の隙に兎に角背中の男を突き放し、未だに腰に回った手に爪を掛けるように逃れる。
ある程度距離を取ったところで後ろを振り返れば、きょとんとした頭に獣の耳のついた男と目がばっちりと合った。
大きく鋭く、それでも好奇心に濡れた栗色の瞳、肩辺りまで伸びたそれより淡い色をした髪。
そしてその上についている二つのピクピクと動く耳。
やはり、獣だ。後ろにはゆらゆらと堅そうな毛並みの茶色い尾が揺れている。

『…犬かよ』
『狼だぜ』
『どっちでもいい、もう二度と触んな屑。臭い』
『悪い悪い。いい感じに妖力が荒れてたから借りただけじゃん、それにあのままじゃお兄さんだってあいつらとばったりしてたかもしれないだろ?』
『うっせぇ、大体お前何処の――』

自由になった右手に冷気を構えて叫ぶように言葉を吐き、とっさに腕を振り上げれば、にやりと楽しそうに男が笑みを浮かべる。
その瞬間何かを拾ったかのようにぴくりと一層大きく動いた耳を、白雪は見逃さなかった。
何かされる――そう悟っても、やはりまだ思うように力が操れない。こんなところで死んでしまっては、夜継は愚か希隻にすら示しがつかないのに。
つまらない自尊心なんて棄てて見逃してくれとでも乞うのが得策かとも考えたが、その隙に今度はきちんと手首を掴まれてまた距離を詰められていた。

『っ、!?』

微かに鳴った喉が、本能的に嫌だと告げる。
迫ってきた弧を描く口許に、確かな犬歯が見て取れた。
とっさに喰われるのではないかとわけのわからない先入観に絡み取られたところで、背中に腕を回されるなりぐらりと視界が揺れる。

『俺、侵夜って言うんだ。なあ白雪』

項に容赦ない強い衝撃を受けたのは、それからすぐのことだった。






イかれてるね