14


『――なんでだよ!!?』

幼い頃から随分と長いこと兄と過ごしてきたが、そんな怒鳴り声が社に響き渡ったのは初めてのことだった。
放っておけば辺りの水が凍るほどの――雪女である希隻には持って来いであるこの季節、冷える早朝から雨乞の元へ行って辺りが明るくなった程度の時刻に戻ってきて。
夜継達と出逢って迎えた、初めての冬。
慌てて声のする座敷の方へ向かえば、そこでは囲炉裏の火を挟んだ状態で先程の声の主、白雪と夜継が対峙していた。

『俺も行ける、そこまで軟じゃない…!』
『駄目だ。ただでさえ冬なのに、お前を北なんかには連れていけない。留守番してろ』
『最近そればっかじゃねぇか、舐めてんのか手前っ…』

白雪は重ねてそう叫ぶと、頭を抱えながら、肘元にやるもう一方の手に力を込める。
握る袖には強い皺が寄り、言葉には明らかなる苛立ちが籠もっていて、一句一句吐くごとに大袈裟なくらい息を吸っては声を荒らげてく。
一方で珍しく夜継の方も金色の隻眼を細め、困ったようにちらりと窺える眉間に皺を寄せていた。

『俺もいきたい、』
『だから、駄目だ』
『暫く帰らねぇって言ったじゃねぇか』
『用が済んだらすぐ戻ってくる』
『じゃあそれってどのくらいなんだよ!!』

悲痛な言葉に合わせて、燃え続ける囲炉裏の薪が、ぱきんと不自然な音を立てる。
微かに凪いだ冷気に、炎がゆらりと瞬いた。
聞く耳持たずで顔さえ上げない白雪に、夜継が堪らず微かな舌打ちを洩らす。

――嗚呼このままじゃ、危険だ、と。

『どう、なさったんですか…?』
『調べ物があって北へ行くことになった。いつもみたいにここで留守番してろって言ってるのに、気が立っててさっきからこの調子だ』

そう思って白雪の様子を窺いながら希隻が夜継の背に声を掛けると、漆黒の男は振り返ることのないまま首だけを少し後ろに傾けて答えてくれた。
夜継の放浪癖は今に始まったことではないらしいが、ここに来てからもこれまでせいぜい遠くて山二つ向こうぐらいに行く程度で、夜までには必ず帰ってくるというものだ。
しかし今回は先程の会話から察するに数日掛かる用があるらしい。
確かに毎回夜継の帰りを白雪は希隻よりも早く迎えていたし、留守番ということにも最初から不満を洩らしていた気もする。
これまで募ってきたそれが数日連なり、改めて告げられて爆発したというところか。
そしてこのように、朝から一触即発の雰囲気で睨み合っているのだ。
白雪の方は特にもういっぱいいっぱいのようで、繰り返される一緒に行くという単語は何度も耳にすると最早懇願のようにさえ取れる。
動物が威嚇する際のようなふーふーとした息遣いは、白雪の焦りを象徴したかのように微かな軋みを立てる炎に混じった。

『…寒くてもちゃんと我慢するから、連れてってくれ』
『白雪、…やめろ』

咎めるように、夜継が彼の名を口にする。
ピシリと囲炉裏に掛かる鍋が奇妙な音を立て、また微かに吹いた風に夜継が肩を擦る。
今度は希隻が確信するほど、気温が数度下がった。
希隻にはどうってことはないが、今このタイミングでのこれは白雪の力に違いない。

『なんでだよ。色んなとこ、見せてくれるって言ったじゃねぇか…!なのに最近、留守番ばっかさせられて、ずっと、』
『まて――話を聞、…ッ!』

パキン、と音が鳴ったのは、その瞬間だった。
とっさに金色の法具を夜継が構えるが、間に合わない。
気付けばいつの間にか夜継の手から腕にかけて、ピシピシと氷が張り付いてく。
掴めなかった法具はしゃん、と気高い鈴の音を鳴らし、畳の上に倒れれてしまう。
一方白雪は小さく何かを呟いてから、夜継の隣を荒々しく通り過ぎ、希隻を押し退けて社から飛び出していった。
慌てて夜継が振り返るが、腕を駆けた低温特有の射抜くような痛みに微かに眉根が寄る。
これは白雪の術というより――ほぼ荒れた妖怪力に呑まれたというところか。
軽く舌打ちした夜継に慌てて希隻は近寄るが、急いで氷を溶かなければと構えると氷に憑かれた本人がそれを静止した。

『俺の腕はいいから、あいつのこと追ってくれ。無理矢理にでも連れ帰ってほしい、』

殺す気で掛けられたわけではないのだ、地道になんとかすれば、これくらいはきっとどうにかなる。
勿論希隻の手があった方が溶かすのは早いだろうが、そんな些細な時間でも今の白雪に山奥――もしくは遠くへ逃げられては堪らない。
今は冬であり、気温も下手すれば零度以下にまで至る。
暴走していても妖力が強まって制御できなくなるくらいなので他の妖に彼がやられはしないだろうが、自然の気候はどうしようもない。
そう思うと夜継の腕を駆ける痛みなんてどうでもいいほどだ。とめてやらなければ。
希隻は少し困った顔をしたあと、頷いて同じように社から飛び出してく。

『…心配しなくても勝手にいなくなったりしないのに、馬鹿だな』

そのまま置いて行かれないか、きっと白雪はそれが心配で仕方ないのだろう。
周囲から除け者にされて、ようやく見つけた居場所が唐突に自分を薙ぎ払う――夜継が白雪の立場でも、その気持ちは痛いほどわかる。
例え相手の気持ちがわかっていても、過去があるから不安で恐ろしくて堪らない。
刺すような痛みは、夜継の体温さえも下げていく。
囲炉裏の火が消えなかったことが、唯一の救いだ。

ただ、こんなのでは戻ってきた白雪に触れてやることさえ出来やしない。






この手を離さないでいてくれる?