13


『右向いて』
『ん』

真紅達に採らせに行った薬草を磨り潰して薬にしたものを、癒すほどでもない些細な傷に塗る。
すっかり出逢った当初とは違う、光の戻った土色の瞳はぼんやりと宵闇色の中で光る月を欠けた眺めていた。
隣で丸くなって眠っている鈴音の白金色の髪を掬っては玩びという仕草を、男は何処か疲れきったような重い息と共に繰り返す。

『痛かっただろう』
『…白々しい。あんたも見てたじゃん』

狂った獣を調教するのに、一体どれだけの月日を要しただろうか。
否、ひょっとしたら彼岸が思っているより多くの日は過ぎてはいないのかもしれない。
それでも多くの傷がこの狼の男――侵夜の身体には残って、その代償にようやく取り戻した理性が今の彼を繋ぎ止めている。
もう鈴音に手を上げることもなければ勿論誰かに噛み付きもしないし、死樹や彼岸に不躾に絡んでくることもない。
その様子にようやく満足した死樹は、あの日から定期的に行っていた仕置きから彼をようやく解放した。

『もう全部思い出したのかい?』
『柄の悪い神サマのおかげで』
『じゃあどうしてあんなになるまで放っておいたのさ』
『それは――』

そう尋ねてから彼岸が他に違和感のあるところがないかと訊けば、侵夜は少し首を傾げて手足を動かしてみたりする。
それに合わせてふわふわと、狼特有の耳と尻尾も動いた。
中指が少し、と呟いた彼の手を取って、少し触れる。
確かに言われてみれば感じられる些細な変化がある、かも知れない。突き指、みたいなものだろう。
固定しようか、と包帯を構えれば、その間に低く怠そうに侵夜が乾いた唇を開いた。

『狼を、喰ってたんだ』
『――へぇ、』

――共食い、か。

『それ以外に喰うものがなかったから。群れだったし、そして何より弱かった』
『ふぅん』
『もう何回喰ったかわからない。噛み付いたことは一回あったかなかったかだったけど死んだ奴は確実に喰ってた』
『――知ってて食べたの』

――それは、規則破りだと。

微かな声がきちんと届いたのか、ぐるぐると指先を覆う布にぴくりと侵夜の耳が反応する。流石は狼だ。
青い瞳と土色の瞳が、初めてきちんと交錯した。
侵夜の双眸が、ふとゆるやかに細まって、また続ける。

『…あの日、いつもと違う感じがして“あぁ、遂にきたな”って感じた。よく覚えてないけど確かただ、人間に追われてる猫がいて、そいつらがたかが猫一匹に色んな武器を持って大人数で来てたからからどうせ死ぬならって飛び出したんだよ』

こいつは知らない猫なんだ――そう彼が話を締めたのと、指先に包帯を巻き終えたのは計られてのことか丁度だった。
一緒にいた仲間は、当の昔に気が触れてもういないのだと言う。
自分が仲間を喰らっていた上で正気を保っていた最後の一人だと。

『君は、強い』

それでも死を覚悟して罪を犯した彼は、その罪を狩るべく“神”に命を救われたのだから皮肉なものだと思う。
きっと彼は、ただこれまでは守るモノが多すぎてきちんと担えなかっただけだ。
どんなに背負っても沢山あってしかもそれらは小さくて儚くて、ぼろぼろと後ろから零れていく。
でも今日、この夜から、もう彼の背に背負うものはたった一つしかない。

『これからどうするかがないのなら、これまで沢山の仲間の為に使ってきたその強さをこれからは、この猫の娘の為だけに使うといい』

――そしてこの猫が尽くすと誓った堕落神の為に、どうか刃を振るって欲しいのだ。

同胞にさえ突き立てられる、その鋭い牙を。
そこにはきっと、これまでとは違う沢山の出会いもあるだろう。
一通り手当をし終えたのを確認すると、彼岸は終わったよ、と軽く彼の肩をぽんと叩いてみる。
その言葉に、侵夜は俯いただけで返事はしなかった。






淡く染まる雲間から