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五月蝿いなぁ、と白雪は大の大人の容姿をして、自分より明らかに体格の小さいこの森の長の妹に泣きじゃくる男を、まるで汚らわしい何かを見るかのように横目でちらちらと窺っていた。
星に濡れ、時々きらきらと輝く透けるような淡い空色の髪。
いつしかの時代を連想させる書生のような袴を身に着け、ひたすら男は比較的その整った顔の、眉根を情けなく下げ菫色の双眸からただぽろぽろと涙を零す。
女子がしているならまだ愛らしいその仕草を、同年代に近い青年が行っているのだ。
ひくひくと繰り返す耳障りなその音に、ただ無性にイライラする。

『雨乞が、いないんだ…!何かあったらどうしよう…、この雨だからきっとぼくのこと怒ってるに違いない…!どうしよう…!』
『だ、大丈夫ですよ。燈光さん。雨乞さんのことですから、きっと雨が止む頃には帰ってきます。ね?だから泣かないでください』
『じ、じゃあ雨っていつ止むのさ…!』
『それは――…、私は“雨女”ではないのでちょっと。雪くらいなら予想出来ますが』

白雪の知る限り、今時そこらの子どもでもこんな面倒臭く泣かない。

『おい、そいつどうにかしろ』

いい加減我慢の限界がきて立ち上がると、大袈裟にまた男――燈光の肩がびくりと震えた。
先程ここにやってきた際、戸を開けたのも白雪だったのだが、その時から既に半泣き状態で、震える声で誰ですかと尋ねられたのだ。
更にそれに対していつもの調子で答えれば、こうしてひっ、だなんて悲鳴を上げられた。
この世界に生きているならば人間の悲鳴は当然とするが、まさかこんな妖の滑稽な声を耳にする日がこようとは思ってもいなかった。
怖がる燈光を庇うように、すみませんと苦笑した少女に、眩暈がするほど呆れ、雨が降っているにも関わらず結局硝子障子を全開にして空を眺めながら夜継の帰りを待つことにする。
出逢って随分経つが、この少女と出逢ってからこうして留守番を任されることが多くなった。
特に雨の時はそうだ。鴉天狗は天気にも敏感で、すぐに嵐も察せてしまう。
勿論だからと言って現在地にもよるし、全ての大雨を回避出来るわけではない。
これまでは決まった居場所もなかったので行くとこ行くとこについて行き二人で何もかもしていたのに、こうしているとなんだかひどく老いぼれたようにさえ感じる。

――“どうせ雨だ。大した用でもないし、お前はここにいてこいつの面倒でも見てろ”

『――ぁ、』

ふ、と。雨のにおいが充満する中、そうして男の泣き声を背景に思考を巡らせていた白雪は我に返る。
帰ってきた?これは、夜継の気配だ。間違えるわけがない。
だが少しいつもと違う気がする。
これは――別の妖か。しかも物凄く、血の臭いを纏った。

『おい、きせ』
『――あぁ…!』

振り返って、情けない男の相手をしている少女を呼ぶ。
しかしそれを言い終えるより先に、今までとは比べ物にならないくらい俊敏に動いたのは空色の髪を煌めかせる燈光だった。
ぺたんと畳のの上に座り、少女に喚きながら不満をつらつらと述べ、床に拳をぶつけていたのに。
白雪の横を颯爽と通り抜けて草履を履き、雨の中そのまま建物の段差に躓いてまた微かに悲鳴を上げる。
少女が危ないですよと止めるのを、手前は呼んでないと白雪が眉間に皺を寄せるのを、振り返りもせずに走ってく。
追おうとする少女は、流石に止めた。この気配は危険だ。

『白雪さん、これは、』

背に庇った少女が何か言いかけたが、それより立ち込める木々の中から夜継が姿を現す方が先だった。
青い、真っ直ぐとヒトを射抜ける鋭さを持つ視線を必死に凝らす。
あれは本当に、夜継なのか。
否、そうではなく隣にいる小さな娘はなんなのか。
彼らの元へ走っていた燈光が、何もないところで顔面から突っ込むのではないかと思うほど不意にがくんとバランスを崩してまた走る。
するとがむしゃらに走る燈光を認識したらしき夜継の隣の娘が、はと顔を上げた。

『ァ、青ちゃん』
『雨乞…!』

とてとてと走ってきた雨乞と呼ばれた娘は、真っ直ぐと燈光の元へ走ってくる。
そして燈光もそれに合わせて、ぶわりと飛ぶように彼女との距離を詰めた。
伸ばされた雨乞の手首を、そのまま慣れた動作で引き寄せる。
ひどく優しく、どこかで覚えのある動きだとも思った。

『ったく、何処行ってやがったんだ…!心配しただろ勝手にどっか行くなって何回言ったらわかんだ、なぁ』
『青ちゃん、怒ッテル』

『ざけんなよ、怒ってるどころじゃねぇよ屑』

雨の中ぎゅう、と交わされた抱擁に、白雪はすっかりついていけない。
そもそも燈光は、彼女相手だとこんな口調に変わるのか?
ぼんやりしていると、すぐにそんな二人を放って夜継が隣までやってくる。
後ろで結われた黒髪は、水分を含んでだらんと肩に流れていた。
白雪の後ろにいた少女が慌てて何か拭える布を取りに行く。

『…、ひどい雨だな』
『…それよりなんなんだあの女』
『雨女』
『そういうことじゃねぇよ』

夜継の濡れた肩にもたれかかれば、ひんやりと身体の神経が内から震える。
そうだ、先程の燈光の引き寄せ方は、寒がる白雪を夜継があやすときのもの酷似しているのだ。
すると充分再会を果たしたらしい燈光たちが、同じくずぶ濡れの状態でこちらへ帰ってくる。

『鴉天狗よ、こいつを助けてくれてどーも。いつまで経っても殺気だけは抜けないのに、勝手にどっか行きやがるから困ってたんだ』
『…あぁ、ひどいな。この気配は。うちの奴もこの通り警戒してる』

頷く夜継の横で、白雪は目を細めるしかない。
先程まで、わんわん泣きじゃくっていた青年は何処へ行ったのか。

『ンな面して睨むなよ、雪男。オレは燈光みたいにあんなだっさく喚かねぇ』

視線に気付いた燈光の顔をした男は、そう言って口角を意地悪く釣り上げる。
まるで別人のようなその表情に、ようやく一つの可能性が浮かんだ。
ひょっとして――彼と先程の男は、別の物なのか。

『おい希隻。オレと雨乞にもなんか拭くやつ持って来い』

いつの間にか雨乞の手には、銀色の籠に守られた行燈が握られたいた。
中で青く燃え盛る焔が、雨にも関わらず轟々と音を鳴らす。






愛と優