――ここでは、空から妖が降ってくるのか。 * 昔々、といっても自分の人生においてはまだ最近に部類される二、三百年前。 放浪癖に順じて色々なところを飛び回っていた或る日、夜継は自尊心だけは充分な、それでも死にたいのだと嘆く独りの男に出逢った。 自らの背でばさりと瞬く、鴉の羽の如く真っ黒な長髪。 そしてそんな髪に埋もれてしまっている、世界の全てを恨み、嫌い、拒絶するような――それでも必死に、誰かを求める美しい双眸。 確かにあの時夜継は――死を待つ彼の傍らで、ただぽつりと“このまま死なせるのは勿体ないな”と思ったのだ。 だから彼の、死を止めた。 それでも生きていたところで居場所がないと更にごねる男に、なら一緒に旅をしようと持ち掛けた。 その怒りを、絶望を、全て力に変えようと。お前の武器にしてしまえばいいと。 鋭く射抜くようなその瞳も、前に出してヒトを見ればいいと。 * 長の妹である雪女から許しを得、暫く滞在することになった、かつて見紛うほど素晴らしい能力を手にした雪男が治めていた森。 ここに来る以前に訪ねた、二つ人里を越えたところから野暮用を済ませて戻ってきた夜継は、大きな漆黒の翼を瞬かせ、ふわりとぬかるんだ地上へと着地した。 ぱらぱらと降る天からの雫を、人々は、そして妖も揃えて“雨”と呼ぶ。 幸いなことに、居候させて貰っている社に白雪は置いてきたので問題はない。 もう近くまで来ているのだ、わざわざ視界の限られてくるこの中を飛行するのは億劫で、出来るだけ雨を受けない場所を選びながら、ゆったりと底の高い下駄で樹の隙間を潜っていく。 後ろで束ねられた長い黒髪は、水分を含んだせいで夜継の歩みに合わせて揺れることもなく肩に張り付いていた。 傘があるのに越したことはないが、濡れたところで相当弱っているかもしくは水に弱いかでなければ妖にとっては大きな問題にはならない。 ざっと音を立てる地面からも、今日はぐちょりと不吉な音が鳴る。 水溜まりに入ると、更に足場は悪くなりずっと沼に引き込まれる錯覚さえ覚えた。 いくら底が高いからといって、こけて嵌まってしまえば元も子もない。 今のより少し大きい二つ目の水溜まりを目にしたところで、わざわざその脇を迂回して進む。 ――違和感に気付いたのは、その時だった。 ぴちゃり、と進む足を止めて周囲を確認する。 雨で気配が弱くなっているが確実に近くに、一人。誰かいる。 これは――右斜め数メートル進んだところにある、周囲より一際育った幹の太い樹からだ。 意識を研ぎ澄ましても、生憎の天候で詳細が感じ取れない。ただ、どうやら人間でないらしい。 しかも雰囲気に大きな殺意を帯びている。 沢山の妖を、殺したことのある者か? 夜継が手首を捻るようにくるりと回せば、そこに金色の法具が現れた。 こちらから戦闘を仕掛けるつもりではないが、万が一にも備えて手元にあった方がいい。 しゃん、と微かに響いた音を掻き消すようにばさり、と羽を鳴らして距離を詰めれば、どうやら気配の主はその大木の葉の中にいるようだった。 それにしても変だ。 相手もこちらに気付いているだろうに、なかなか反応がない。 しかしがさごそと揺れる葉の方を警戒しつつ見張っていると、不意に葉が大きく揺らぐ。 それに合わせて眉間に皺を寄せ、片割れの黄金の瞳を細めた。 何かの術を施すつもりなら破らなければいけない。 だが夜継が素早く構えるのも虚しく、すぐにがさごそとした音はしんと落ち着きを取り戻し、また雨音に埋もれてく。 『――!』 ばきん、と大きく呆気ない、何かが割れる音が響いたのは、そのあとだ。 すぐさま襲った違和感とようやく見えた小さな影に、構えていた法具をぬかるんだ地面に放り出す。 ――落ちてくる、 『…っ、ぁ、ぶな』 法具と同じ色に輝く隻眼が、珍しくほんの一瞬だが大きく見開かれる。 真っ逆さまに地へ向かう影には流石の夜継も驚いた。 思考的には大きく一歩退こうとしたのだが、我に返った夜継はそうじゃない、と本能的にその落下するモノを受け止めようと急ぐ。 一瞬目にしたその影は確かに、少女だったのだ。 外見から推測出来る年齢は、希隻よりも少し幼い、といったところだろうか。 自分で受け身が取れる可能性もあるが、取れなかった場合ひどく身体を打ち付けることになってしまう。 雨がざぁざぁと降り始めた中、夜継は降ってきた少女をぎりぎりのところで、横抱きにする形で抱え込んだ。 突然の落下速度を兼ねた重みに微かに腕に痛みを覚える。がつん、と下駄が嫌な音を立てたのを、耐えることで敢えて聞かないふりをした。 落下の衝撃を待っていたのか、それにしてはさほど力も込めずに閉じられた瞳が開くと、ぱっちりとした藤色の双眸が息を吐く夜継を捉える。 『てんぐ。ダレ。戦う』 機械的な声色でそう少女唇を開くと、僅かに雨が夜継を打つように強まった。 面と向かった今ならきちんと認識も出来る。 これは――“雨女”だ。 幸いなことに怪我もしてないらしく、そっとその身体を下ろしてから、夜継は顔に掛かった前髪を掻き上げて微かに唇を開く。 同時に洩れた吐息が安堵からなのかそれとも拍子抜けぬによるものなのかは、自分でもわからない。 『…旅者だ。名は夜継。あんたは、ここの者か?それと、出来れば戦闘はしたくない』 すると少女は少し考えるようにしてから、こくりと首を縦に振った。 振り返れば、欠かさず手入れしていた法具が泥まみれで濡れた地に浸っている。 また、磨かなければ。 血塗れの少女 |